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あればこそ。

いまってとても辛い時期ですよね。
この国の力が試されているというのか、国全体が揺らいでいるような、ぎりぎりの線で一進一退の攻防戦を強いられているというか。

みんなが何かしらで、厳しい局面を迎えている。
みんなが何かしらで、歯を食いしばって奮闘している。

戦後の厳しい時期以来の、この国全体の正念場なのでしょうか。

現実の厳しさに目を背けたくなったとき、僕は音楽の力に救われている感じがした。
自分の生活の一部になっていた音楽が、厳しい現実を、ふっと和らげてくれるというのか。

音楽があったからこそ、墓場まで持って行きたいような音楽に出会えたからこそ、何とか正気を保てて、冷静に今の生活を続けていられるような気がしました。

音楽があればこその、今の生活。
久々の仲間とのささやかな酒宴を終えて、iPodから流れる音楽を聴きつつ、現実を一歩引いた形で見つめることの出来た夜でした。
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by masa-stones | 2011-03-24 22:58 | 音楽に語る | Comments(0)  

原チャリ コケる。

実家に帰った雨の日。
親父が運転する車で坂道を走り下りていると、かなり前を走っていた原チャリが左折しようとしたときに、スリップして横転。乗っていたおばちゃんがバイクの下敷きになるかたちで倒れた。
これは一大事と思った我が家は自動車を路肩に停止。
ワタシと母で、路上に倒れて起き上がれないおばちゃんに声をかけた。

結構痛そうな顔をしていたし、足がバイクの下敷きになっていたので、大丈夫か?怪我は無いか?救急車を呼びますか?と声をかけたところ、すんごい棒読みの口調で「救急車は呼ばないで下さい」、とのこと。そして、バイクを起こして下さい、とやはり棒読みで言うので、バイクを起こしてあげた。すると痛そうな表情を浮かべながらおばちゃんは立ち上がり、バイクのハンドルを掴んだ。
おばちゃんの顔を見ると、顔面蒼白、目つきだけがギョロリとしていて、よく言えば転倒して気が動転している様子。でも、明らかに様子が変なので、もう一度、大丈夫ですか?救急車呼びますか?と訊ねると、こちらの対応をあからさまに煙たがっている表情を浮かべて受け流される・・・。

まあ、大丈夫そうだし、迷惑そうなので、そのまま去ることにした。
するとワタシ達が車に戻る後ろから、おばちゃんが何かブツブツと言っているのが聞こえた。何を言っているのかは聞こえなかったけども。
しかし幾らオバちゃんの気が動転していたとはいえ、あのギョロリとした焦点の合っていない目つきと、モゴモゴと何かを独りごちしているのは、正直ちょっと気味が悪かった。

一応親切心から声をかけたものの、あんまり気味が悪かったもので、その後我が家の車内の雰囲気がよろしくなかったことは、言うまでもありません。

ACの広告みたいに思いやりを行動にしても、返ってくる反応が良いとは限らないんですね。世の中は難しい・・・。
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by masa-stones | 2011-03-21 21:27 | 日常に語る | Comments(0)  

エール

いまでも、被災地では沢山の人々が、自分の為すべきことに、それぞれの立場で全力を尽くしている。特に、恐ろしい原発の現場で、自己の危険を顧みず、必死で事態打開に取り組んでいる東京電力の社員をはじめ、沢山の人々の勇気と献身には、心からの敬意を表したい。

計画停電で、東京電力が色々と批判を受けている。
でも、このような未曾有の事態になり、事故的な停電を発生させない為に突貫で準備せざるを得なかった計画なわけだ。全く混乱無くスタートさせること出来るって、それが当然だと思うのか?エラそうに批判している方々なら、それが出来るというのか??

初めての事態に、初めて取り組むのだから、最初から完璧に出来る人なんていやしない。

気に入らないことを批判することは、容易いことだ。
だけど、こんなにも困難な事態に、懸命に取り組み、少しでも停電の影響を小さくしようと努力している、東京電力にはエールを送るべきではないか。
被曝の危険と背中合わせの現場で、経験したことの無い事態と、容易に打開出来ない危機に、命がけで挑んでいる、東京電力社員の方々のために、僕らは祈るべきではないか。

世間の身勝手な批判に耐えて、最前線で努力されている、東京電力社員の皆さん、この国のため、自分たちの技術に自信を持って、精一杯頑張って下さい。
そして、ご無事をお祈りしています。
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by masa-stones | 2011-03-16 20:46 | この頃思うこと | Comments(0)  

地震ドキュメンタリー 3月11日

平成23年3月11日14時46分。
僕は、ちょうど電話をしようと思って、席を立ちながら電話をダイヤルし始めた。と、建物が揺れていることに気づき、地震だと思った。
天井からぶら下がっている看板を見上げていると、少しずつ揺れが強くなってきたことが分かった。僕は受話器を置き、本当であれば机の下に潜るべきであるところをそうせず、近くの柱の近くに移動した。
職場の建物は、築41年を経過しており、僕は以前から床が抜けるのではないかと心配しているのだ。だから建物の躯体付近にいる方がいいように思えて、何も考えずにすっと移動をした。
すると揺れは半端じゃなくなってきた。
そのとき、事務室内には僕を含めて4名しかおらず、内2名は女性だった。
強くなる揺れの中、事務室の奥の方から女性社員がどうしたらいいのか、と叫んだ。僕は、机の下に潜るか、床が抜けるかもしれないから柱の近くに行って、と大声で言った。もう一人の社員は僕の上司で、机を離れなかった。
女性社員2名は、揺れる中僕が立っていた柱の傍にまで駆け寄ってきた。
普通の地震は、揺れが長くても1分程度、というのが常識だったが、この地震は大違いだった。いつまで経っても揺れが収まらない。建物全体が軋んでいた。柱の横にあったOAラックが横滑りし、上積みされていたプリンタや端末が床に落下した。奥にあったキャビネットは真っ逆さまに床に倒れた。食器棚は転倒はしなかったものの、はす向かいににあるロッカーに引っ掛かった。でも、色々な音が響いていて、何が起きているのか、状況を把握するのは無理だった。
ようやく揺れが収まったとき、事務室内はめちゃくちゃになっていた。でも、揺れが収まったのかどうかは、よくわからなかった。何だかまだ揺れている感じがしてならなかった。
ふと目をそらすと、僕らが立っていた柱の傍に、コピー機があった。こういうのが震度7クラスになると、凄い勢いで横滑りするのだ。僕は自分が立っていた柱の傍に危険が存在してたことに、内心怖くなった。
その後、2人の男性社員が事務室に戻ってきて、お互いの無事を確かめた。
このまま建物に残ろうかと言う人もいたが、僕は建物の外に避難しましょうと勧めた。まるでバリケードで固められた基地に入って行くように、事務室内の色んな物が倒れて行く手を阻んでいたのを乗り越えて、ロッカースペースに入り込み、人数分のヘルメットを持ってきた。
何を持っていけばいい?と誰かに聞かれたので、防寒服と貴重品だけ持ち出すように勧めた。女性社員に、お茶がこぼれて水浸しになっている書類はどうしたらいいかと聞かれたので、僕は放っておくように言った。

事務室を出ると、既に他の部署の社員が避難を開始していた。
皆一様に落ち着いた様子だったが、階段へ向かう途中にある他の事務室を見ると、沢山のロッカーが倒れており、僕らのオフィスよりもひどいことになっていた。
避難中も、余震が続いているようで、建物は終始揺れているように感じた。
一階のロビーに出ると、飾ってあった彫刻が転倒、破損していた。
建物の外に出ると、すでにかなりの人数の社員が出ていた。僕らは同じ部のメンバーでまとまってしばらく待機をすることとなった。
近くには足腰を負傷したと思われる男性がキャスター付きの椅子に乗せられて、建物から出てきた。顔をしかめていて、かなりの痛みを感じているようだった。社員数名のサポートの中、救急車ではないワンボックスカーに乗せられて、どこかへ運ばれて行った。恐らく病院に行ったのだろうけど。

そうしていると、15時15分ごろ、再び大きな揺れが襲ってきた。
目の前にある会社の建物が大きく揺れていた。周囲のビルが揺さぶられる音が響き渡っていた。真横にある高架構造物が、聞いたこともないような鋼鉄の軋む音を大きく響かせ、左右に大きく揺れていた。
ここまで大きな地震は生まれて初めてだった。
僕が小学校4年生の頃、千葉県東方沖地震の影響で、東京が確か震度5を記録したことがあったけど、その時以来だった。その時は、偶然にも小学校の避難訓練の最中で、みんなで消火器の使い方を教わっているときだった。体育座りをしながら、電柱が大きく揺さぶられてるのを見上げていたのを覚えている。

避難している最中、何度も何度も家族に電話をかけた。しかし携帯から携帯へは全く繋がらなかった。メールは送信することが出来たので、家族に自分の無事を知らせた。メールの受信はリアルタイムには出来なかったようで、1時間に1回程度、20通とかがまとまって受信されていた。
屋外退避が解除になり、建物に戻ってからも、何度も家族に連絡を取ろうと試みた。携帯から携帯は全くダメだったが、固定電話は比較的繋がった。
最初に妻と連絡が取れ、次いで姉、かなり遅れて母、最後に父と連絡が取れた。もうそれは19時頃だったと思う。姉からのメールで母の無事は比較的早く知ることが出来ていたが、それでも自分で声を聞かないことには安心出来なかった。全ての家族の安否が確認出来るまでは、仕事をしながらも、全然手が着かないような状態だった。災害時に、家族の安否を知ることは、自分の行動を冷静にするということを学んだ。同僚は、津波警報が出ている地域に家があり、実際に津波が到達したという報道があったため、不安そうに家族に連絡を試みていたが、全く連絡がつかないまま仕事に従事していた。

数日が経過したいまでも、目を閉じると、事務室内で激しく揺れていた光景を思い出す。
職場の建物が軋む音が耳に蘇る。
それでも、たかだか震度6弱とか5強なのだ。震度7や6が襲った岩手や宮城の恐ろしさは想像を絶する。

その夜、災害対応のため、急遽泊まり勤務になり、業務に関係する機関の被害状況や、今後の対策等情報収集とその対外発信と報告に追われた。妻が里帰りしているため、一人暮らし状態の我が家の被害状況が気になって仕方なかったが、確認のしようがなかった。結局災害対応がひととおり落ち着いたのが、夜1時頃だった。
しかし、その業務の中でも、果てしなく続く余震は、本当に恐怖だった。あまりにも揺れるので、地震が来ていない時間帯でも揺れているように感じてしまうようになった。
僕はPCに向かいながら、揺れを感じるとヘルメットを片手に、例の柱の傍に立ち、収まると机に向かった。すると緊急地震速報の音が鳴り響き、再び柱へ移動。これを何度も繰り返していた。
事務室にパイプ椅子を並べて、仮眠を取ろうとしても、揺れる度に目を覚まして起き上がって柱へ移動した。うかうか眠っていられなかった。

結局殆ど眠れず、繰り返される揺れと緊急地震速報のたびに、異様な興奮とともに目が覚めた。そして、眠気が襲う・・・。

次の日、11時頃、別の社員と交代し帰宅した。
家は、予想外に殆ど被害がなかった。それは不幸中の幸いだった。でも、気象庁が余震の恐れが有ると注意を促していたので、落下しそうなものは全て畳の上に陳列した。
高さのあるラックは転倒の恐れがあるので、ダイニングテーブルを移動、密着させて転倒を無理矢理防止した。

ここまでやって、くたくたになってしまった。
しかし、たかが震度6弱とか震度5強で津波が無いのだから、この程度で疲れたなんて言っていられない。しかし、今回の地震が、まだ来ぬ関東直下型地震の対応訓練になったのは間違いない。
とにかく、家族や友人が無事だったのが何よりだった。
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by masa-stones | 2011-03-15 19:55 | この頃思うこと | Comments(0)  

地震

このブログをご覧頂いている、全ての方とそのご家族、友人、知人の方が無事であることをお祈り致します。
この大変な状況を、皆で力を合わせて、乗り切っていかないといけませんね。
こういうときこそ、助け合い、お互い様という、私達の祖先から続く、美しい伝統に則って。
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by masa-stones | 2011-03-14 00:30 | この頃思うこと | Comments(0)  

ばらの花

Youtubeで見つけました。
これ、かっこいいです。くるりの「ばらの花」!
http://www.youtube.com/watch?v=I0NqxaUkjR8
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by masa-stones | 2011-03-07 22:42 | My Favorite | Comments(0)