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信州ツアー(典厩寺)

恐らく、武田信玄の名前は、この国の誰もが一度は耳にした事があるでしょう。
しかし、その弟、武田信繁は、残念ながら広く知られてはいません。
ワタシは、この武田信繁こそが、戦国時代の群雄のなかで、もっとも大好きな武将であるのです。
そして、その信繁公が討ち死にしたのが、第4回川中島の戦いでした。この前の日記でも書きましたが、武田の別働隊の動きを事前に察知され、逆に奇襲を受けてしまう事になった武田軍。そのとき、本陣を守るために、手勢800騎を率い、自ら先頭に立って武田信玄のいる本陣を守る為に出撃したのが、この武田家副将の信繁公でした。
自らの名前を大声で叫びながら敵を引きつけ、壮絶な最期を遂げたと言われています。
この信繁公の菩提寺が「典廐寺(てんきゅうじ)」です。c0150209_18242526.jpg
まあ、正直相当マイナーな観光スポットでしょうね。実際カーナビが無ければ、そう簡単に来れなさそうな場所にありました。
ここは元々鶴巣寺と言われていたようですが、川中島合戦から60年後に、松代藩主真田信之が寺名を改め、信繁公と武田・上杉両家の戦死者を弔ったという由緒があります。
境内には、大きな閻魔大王像があり、信繁公の墓と川中島合戦記念館があります。
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こちらが信繁公の墓。
これは自然石製の信繁公の墓。信繁は討死して上杉方に首級を取られたものの、信繁の家臣らが追撃して取り返した。結局首級は領地であった小諸に持ち帰られたため、こちらの寺の墓には胴体だけが眠っているとのこと。
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信繁公は、信玄の弟であり、信玄が武田家の家督を継いだ跡は、よくこれを補佐し、家内をまとめたと言われています。兄弟でも殺し合う事が常であった戦国の世で、信繁と信玄は大変兄弟仲が良かったとらしく、信繁が討ち死にをしたとき、信玄はその亡がらを抱き、号泣したと伝えられています。
その名声は天下に知れ渡っており、敵方の上杉謙信でさえも、信繁の死を知り、惜しい男を亡くしたと嘆いたそうですし、真田昌幸は自分の次男に信繁という名を付けています(後に、真田幸村として知られていますね)。
また、信繁公は、江戸時代にも、「まことの武将」として大変人気があったようです。
これは、信繁公が勇猛な武将であっただけでなく、教養面、そして人格面でも大変優れており、家臣は言うまでもなく領民からも慕われていたからと言われています。江戸時代の儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛しているくらいなのです。

ちなみに「典廐(てんきゅう)」というのは、信繁公の官職名である「左馬助(さまのすけ)」の唐名から来ています。信繁公は、武田家内で「典廐」と呼ばれていたようですよ。
信繁公の遺品として伝えられる様々な品も記念館で展示されており、大感動で参拝を終えたのでした。
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by masa-stones | 2010-12-29 18:37 | 旅情編 | Comments(0)  

とうきょうスカイツリー駅

と、いう駅が出来るそうです。
とうきょうスカイツリー駅。

うん、まあいいんでしょうけども。せっかくの「業平橋」という立派な駅名があるのに、なんとも言えません。
東武が開発しているタワーですから、最寄り駅を持つ東武鉄道としては、やり得る選択肢だったのでしょう。でも、本当に決断して、駅名を変えてしまうとは・・・。
駅名一つ変えるだけでも、各地の看板を変えたり、PASMOシステムの改修だとかで、だいぶ金もかかるでしょうに。それでも投資した分の効果があると判断したんでしょうね。

でも、残念です。
いくらスカイツリーが出来たからって、在原業平に因む昔ながらの名前を守るべきだったのでは?どうもこの国は、昔ながらの物を、経済的な物差しを使って簡単に捨て去りすぎるきらいがありますな。

東武鉃道の判断は、とても残念です。
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by masa-stones | 2010-12-29 00:42 | 日常に語る | Comments(0)  

時代

「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 喜び悲しみ繰り返し・・・」
中島みゆきの、「時代」。文字通りの名曲だ。

久々にバイト仲間と飲む。
この仲間とも、もう15年の付き合いになる。一番古参のメンバー同士は、もうまもなく20年の付き合いになる。そう語り合って驚いた。もう自分達の人生の半分以上を、一緒に過ごしてきた仲間になるわけだ。
年も取る訳だわなと思う。

みんな不景気にあおられ、仕事は厳しい状況が続いている。
その中でも、みんなお互いに必死で生きているってことを、肌身で感じ合った。
それでもそんな境遇を、ちょっと皮肉っぽく笑い合える。
それって幸せなんだなって思った。

友達は、もうまもなく親父になる。
そして僕も、3月には親父になる。10代の頃のヤンチャな時期を共に過ごした仲間同士が、みんな親父になっていく。
感慨深い。
実に感慨深い。

いつの時代を生きた人々も、それぞれにその時代は困難に満ちたものであって、みんな必死で生き抜き、世代をバトンタッチしてきたんだろう。
そして今、僕たちが時代の主役になりつつある。

この国、この世界を背負う年頃になり、次の世代を育んでいく番になった。
いま、この30代は、仕事に家庭に、お互い必死な時代なんだろうけれど、いつか落ち着いた頃に、30代を振り返った話をしてみたいものだと思う。

バイトを卒業して間もなく11年。
当時の仲間と酌み交わす酒。
無縁社会なんて言葉が散見されるこんな時代ではあるけど、「繋がり」を認め合った、年の瀬の夜の宴でありました。

バイトの仲間達へ、心からのGood Luckを願ってしまう。
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by masa-stones | 2010-12-26 22:55 | この頃思うこと | Comments(0)  

信州ツアー(川中島)

今回の旅行の目的は、ここでした。川中島古戦場です。
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子どもの頃から、大の武田信玄ファンであるワタクシ。以来、もう20年来の念願がようやくかない、ここ川中島古戦場、八幡原へと来る事が出来ました!感動!
そう、この近くには何度か来た事がある訳です。信州へスノボに来ると、時々この辺をバスが通過したりしたんですよねー。
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ここで、約450年近く昔、甲斐の虎、武田信玄と、越後の龍、上杉謙信が、死闘を展開したのでした。北信州の覇権を争ったこの戦いは、歴史的に見れば、決して日本史上重要視されるものではない、局地的な戦いでしか無いようですが、なぜそんなに人々に語り継がれているのか。
それは第4回川中島の戦いの、信玄と謙信の一騎打ちがあったからでしょう。
どう考えても、後世の創作なのでしょうが、両雄が八幡原で激突したこの戦いの凄まじさが、そのような伝説を生んだのでしょう。
川中島に陣を構えた両軍、にらみ合いが続く中、武田軍の軍師である山本勘助が、啄木戦法を考案。信玄は、兵を二手に分け、本隊を八幡原に、別働隊を上杉軍が陣を構える妻女山に差し向け、深夜の暗闇に紛れて敵の虚を突き、慌てて山を下りてきた上杉軍を本隊が迎え撃つという、挟み撃ちを図りました。
しかし、武田軍の奇襲攻撃を察知した上杉軍は、先回りして陣地にしていた妻女山を下ります。上杉軍が慌てて山を下りてくると待ち構えていた武田本隊。夜明けになり、八幡原に立ちこめていた厚い霧が晴れ渡ったとき、目の前に展開された上杉の大軍を前に、武田軍は愕然とします。上杉軍に逆に虚を突かれる形となって、戦いの火ぶたが落とされました。
次第に劣勢になる武田軍は鶴翼の陣形。上杉軍は車懸りの陣で、次々と新たな部隊が現れ、武田軍を揺さぶりました。武田信玄の本陣に迫る、上杉軍。失策の責任を取り、山本勘助は上杉軍との戦いに挑みます。そして、武田の副将である武田信繁も、大将である信玄を守るため、自らの名前を大声で叫び、敵を引き付けながら敵陣に切り込んで行きました。信玄は、配下の武将を信じ、自らは動かず、ひたすらに別働隊が戻るのを待ち続けました。
c0150209_17551562.jpg静まる武田本陣。そこに白馬に跨がり突撃してきたのが、上杉謙信でした。
どっしりと戦況を見据え、床机に腰掛けていた武田信玄に、謙信は三太刀斬りつけます。これを信玄はとっさに軍配で防ぎました。これが有名な一騎打ちで、謙信は三太刀斬りつけたとされますが、信玄が持っていた軍配には七太刀を受けた跡が残ったと言われています。
その後、高坂昌信率いる別働隊が八幡原へ到着、上杉軍は挟み撃ち、武田軍の優勢となり、夕方までには兵を引き上げて行く事となりました。

と、ついつい、長々と書いてしまいましたが、昔々、学習まんがシリーズ「武田信玄」を読んだ小坊主が、おっさんになって、その漫画の舞台を訪れた、そんな話だったのでした。

ここでは、当時7000人近くが戦いで命を落としています。
八幡原史跡公園には、武田軍の高坂昌信が戦死者を手厚く葬ったと言われる首塚がありました。戦死者の冥福を祈りつつ、約450年前の合戦に思いを馳せるひと時となりました。

で、ここに来たワタシは相当目をキラキラさせていたようで、妻はそんなワタシを見て「良かったね〜」と笑っておりました。
感慨深い時間でした!
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by masa-stones | 2010-12-25 18:02 | 旅情編 | Comments(0)  

信州ツアー(戸隠)

先日、身重の妻を連れ立って、信州へドライブに行ってきました。
スノボでもないのに、朝5時からレンタカーして、まだ夜も明けきらない都内を横断し、関越練馬インターから一路信州へ!

最初の目的地は、戸隠神社。長野市内は大したことなかったのに、戸隠に向かう道は、すっかり雪道。c0150209_1658783.jpgさすがにあまり慣れていないので、緊張しましたわ。
戸隠神社は伝承によると、その創建はかなり古く、すでに2000年以上経過しているとか・・・。諏訪大社も同じ位古いですよね。と、なると、大和政権の勢力が信州に及ぶ以前に、この一帯にはそれぞれ独自の文化を持つ勢力が存在していたのかな、とも思ってしまいます。
ともあれ、戸隠は、昔から山岳信仰が盛んで、修験道の道場としてかなり広くその名を知られていたそうな。
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しかし、写真を見てお分かり頂けるように・・・。
すんごく寒かったです。
しんしんと雪が降り、体の芯から凍えてしまうような感じでした。
訪れたのは、「中社」で、実は「奥社」をはじめとする、いくつかの神社の総称が戸隠神社なので、本当に参拝するのであれば、他の社へも足を運ぶべきなのですが、なにせこの寒さ!そして積雪!さらに妻は身重と三拍子揃っておりましたので、意気揚々と「中社」をお参りして、他の社にはいずれ、ということに相成りました。
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さあて、戸隠観光の楽しみと言えば、「そば」ですよね!
こちらは、色々な雑誌にも紹介されている「うずら家」です。東京を夜明け前に出発して、戸隠に直行した理由は、この蕎麦屋に行くためでした。行列必至の店だからなのでした。
しかし、とてもうちらは運が良かったのですが、何とこちらのお店は、毎年11月下旬から12月中旬まで3週間程度お休みしていて、一年分の蕎麦粉を製造しているというのです。
たまたま、我々が戸隠に来た日は、この長期休業が明けて最初の日だったのです。ふう、良かった。開店前に、店前に現れたのは、店主(?)。
店前で待っていた我々を含む5組の客にむかって、長期休業明けのご挨拶&新蕎麦粉の出来についてご説明。そして順次、店内へと案内されました。
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詳しくはないけれど、大のそば好きのワタシ。
注文したのは大納言盛という、ざるの大盛りの2倍のざるそば!
「本当に食べれるの??」と心配そうな妻の目を見ずに、このサイズのモノを見つけたとたん、何も考えずに注文してしまいました。だって蕎麦大好きなんだもん。
これが、量はそれほど多くはなく(いつか特許庁の地下にある蕎麦屋で食べた大盛りの方が殺人的でした)、でも、十分に食べ応えはあり、大満足!とにかく、美味しい蕎麦です。
薬味にわさび1本(すり下ろしながら蕎麦を待ちます)、ねぎはいいとして、戸隠大根という辛味大根のおろしが付いてきます。
辛味大根はちょっと辛味が強すぎで、蕎麦の味に勝ってしまう感じがしたので、あまり入れませんでした。
しかし、旨かった!ここはおススメですね・・・って言うまでもなく、有名店ですが。
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by masa-stones | 2010-12-25 17:18 | 旅情編 | Comments(0)  

両親学級・・・(汗)

プレパパである私。
あ、プレパパとは、もうすぐパパになる男のことを言います。つまり妊娠中の奥様がいる、旦那です。
昔々は、お母さんになるために必要な知識を与えてくれる「母親学級」なるものが、各市区町村で行われていましたが、最近では「両親学級」と言うんですねー。

イクメンなる言葉が、だいぶ流行り言葉でなりつつあるような昨今ですが、やはり男も育児に参加するのは時代の要請なのでしょうね。

そんなこんなで、区が主催する「両親学級」に参加をしました。実は今回で2回目。来週も参加する予定です。子育てってものが多分大変であろう事はよく分かっているつもりだし、奥さんに一任という訳にもいかんだろって思うし、だってハンパじゃないほど大変だろうし、って思うと、自分もそれなりに育児に関するスキルを身につける必要があるだろうなーと。

今日は、土曜日だった事もあり、かつ特にパパ向けの内容だったってこともあり、全員夫婦揃っての参加でした(前回、男はワタシ一人という「黒一点」状態でした)。
内容はここでは詳しく書かないのですが、すでに赤ん坊が生まれた夫婦の体験談や、育児に詳しい一般の方の講演は、とても興味深かった。特に経験者(?)の話ってのは、いわゆるナマモノであって、説得力があり、納得出来るものでした。
子育てとは、答えが赤ん坊一人一人で異なっていることや、相手がある意味で宇宙人であること、そして何よりも、人間を育てて行くこと、これは相当に難しい事でもあり、同時にとても充実した楽しいものなんだということが伝わってきました。
・・・でも、正直本当にオヤジになれるのか、不安です。

そのあとは、赤ん坊の人形を使った沐浴のレクチャー。
人形とは言え、結構重い・・。いちおう実際の赤ん坊くらいの重さでした。怖いのは、首が座っていないように作られているので、首元を持たないと、、首がぶらんぶらんとなって・・・、うん、怖い(汗)。
ほんとにだいじょぶかなーーーー。。。。と不安が増幅して、両親学級は終わったのでした。

ただいま、オヤジになるため修行中です。
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by masa-stones | 2010-12-11 23:30 | 日常に語る | Comments(0)  

ジョン・レノン命日

12月8日は、ジョン・レノンの命日。
まだNYに住んでた頃、この日の夜、セントラルパークの一角にあったストロベリーフィールズに足を運んだことがある。
そこには沢山の人が集まっていて、皆でジョンの歌を合唱していた。正確に言うと、弾き語りをする人があちらこちらに居て、その周りに人々が集って歌っていた。最寄りの地下鉄の駅も大混雑。一通り見て回り、ジョンの住んでいたダコタアパートの前で祈りを捧げてから、地下鉄の駅に向かうが、なかなか入れなかった。
強いて言うなら、日本の年末年始、カウントダウン直前・直後って感じの盛り上がり方だった。

そんな光景を目の当たりにしたのは、もう5年も前のことになる。

今日久しぶりにNew York Timesの電子版を閲覧してみると、オノ・ヨーコがコラムを寄稿していた。そこに書かれていたのは、ヨーコがジョンの命日が来ると思い出す、ちょっとした夫婦のヒトコマだった。大した事は無いエピソードに違いない。でも、その記事を読んでいるとき、上手くは言えないが、オノ・ヨーコの気持ちを少しだけ共感出来たような気がした。
紅茶の入れ方を、子どもの頃からずっと長い間勘違いしていて、それを告白したジョンとヨーコが、お互いに笑ってしまった、静かなとある日の夜、というエピソード。それからほどなくして、ジョンは凶弾に倒れ、二人の時間は永久に失われてしまった。

ジョンが亡くなって、30年。
世界が平和になる日は未だ訪れていない。ジョンの平和を訴える歌が、その役目を終える日はいったいいつ来るのだろう?

The New York Times
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by masa-stones | 2010-12-09 23:16 | 日常に語る | Comments(0)